七ぶらシネマ・特別編

極私的、静岡の映画館は、かつて...その4


いよいよ、「七ぶら」一帯に移る。 まず、東映のある場所。たしか日本劇場といっていたような気がする。 映画に関してのもっとも古い記憶が車町の家の前の広っぱで、というのは、 昭和20年代の後期には、そこから静岡駅が見通せたという記憶がある。 だから、そこで屋外上映ができたわけだ。スクリーンに何がしかが映っていた ことは覚えているが、それが何であったかは覚えていない。次いでの記憶が、 多分、ここで見た「ピーターパン」。やはり、最初にアニメーションありきで ある。さらに、ターザンを見た記憶もある。では、その当時、東映の映画はど こでやっていたのかということになるのだが、まったく記憶にない。 現在「七ぶら」にある5つの建物のうち、最初に現在の形になったのは、 この映画館だと記憶している。小学校低学年の正月、それこそ超満員の2階で 大川橋蔵が火消しの役をしている作品を見たが、それ以後、ここに入った記憶は 多くない。これまでの映画館で見てきたように東映作品を上映する2、3番館が 数多くあり、東映のチャンバラの多くはそちらで見ていたのである。正調ヤクザ 映画も、ここで見た記憶はあまりなく、あしげくかよったのは実録路線になって からである。 この建物ではパラスの方が馴染み深い。ずっと洋画の封切り館、それもカブキ座 とならぶ2級作品のそれだったからで、ハリーハウゼンの巨大タコは、ここで見て、 その夜眠れなかったことを覚えている。「花嫁の峰チョゴリザ」なんていうのも 覚えている。山登りに興味を持ったきっかけの作品のひとつといえるからだ。 《追記・2008/9/13》  この<七ぶら>の一区画の21世紀に入って最初の変化はここだった。映画館 専用の建物が壊され、分譲マンションとなり、その1〜3階部分に「静岡東映」が 入るという、わが国では非常に珍しい形の試みとなった。マンションの建物の一部分 とはいえ、スロープ状の床にゆったりとした椅子237席という本格的な劇場である。  この「東映」が08年9月12日に閉館となり、次の日からは地元の配給会社・静活により 「ピカデリーZERO」として再出発。そのZEROとしての最初のスクリーンに登場した のが「東京物語」。映画ファンとしてはとっても有難い催しだが、マニアック過ぎ ない?、と心配もしてしまうのです..........。 《追記・2009/5/21》  3月に「映画館 わが青春のスクリーン 静岡映画館物語」という図書が出版された。 目玉は昭和27年から昭和63年までの間の、静岡における各映画館の上映作品リスト。 このリストによれば、上記の東映の場所の映画館は、昭和30年12月3日のオープンで、 当初は東映と洋画封切りの映宝劇場だったが、翌年、下記の東宝の場所にあった中央劇場が 建替えられ、12月27日、そちらに東映が移り、東映は日本劇場という洋画封切り館に、 映宝劇場は東宝の封切館となった。このふたつの建物は地元の配給会社・日映のものであり、 翌32年7月30日に、日本劇場は元の東映に戻り、東映のあとに東宝が入り、映宝は洋画 封切りに変更されている。さらに、その後、東映の入った建物は東映が日映から買収し、 東映直営となった。ということで、正確に覚えておけ、というのは無理と言うもの。  今年になって、日映が藤枝駅前にシネコンをオープン。対して静活も、現在立替が進められ ている静岡鉄道のターミナルビル内にシネコンを作ることを発表。「七ぶら」シネマ通りも 風前の灯..........!?!?!? ============================================================== 現在の東宝会館になる前は、ひとつの建物に東宝だけという期間 が長く続いたが、その前がどうなっていたのかは定かではない。多 分、「地球防衛軍」は、その新しくなった東宝で見た記憶があるの だが、それ以前の記憶がないのは、小学低学年には無縁の映画をや っていたからだろう。だから、それ以後も、この映画館は、もっぱ ら怪獣物と、そして、そのしばらく後の「無責任」シリーズの劇場 である。「無責任」が圧倒的に面白く、いま懐古的に面白さを感じ る、併映作であることが多かった「社長」シリーズは、中学生のく せにクダラン、あの連中(というのは、森繁であり、のり平であり、 フランキーだった)はまじめに喜劇のことを考えているのか、など と生意気なことを申していた。 =============================================================== ピカデリーのあるところには電気館という劇場があり、菅原謙治 の柔道映画を見た記憶があるので元々大映の封切り館だったが、リ ニューアルされた後も、まあ大映映画も小学生にはあまり関係が 無いということで、地下のアイスパレス(スケート場)と屋上のプ ラネタリウム(ドーム)とニュース喫茶という組み合わせの記憶が 鮮明である。プラネタリウムは早々にゲーム・センターとなり、ア イスパレスもしばらく後には映画館となり、かなり長い間、前回に ふれた名画座が移ってきた形だった。ただし、こちらでの名画座に は、何十回と入ったにもかかわらず、ここだったらこれだ、という 作品は思い浮かばない。 * 今も残るドームは、新築時には無かったような気がする。 建物ができて何年か後に作られた? また、この屋上から ミラノの屋上に通りをまたいで通路がつけられているが、 これはミラノの屋上にあったバッティング・センターに行 くためのもの。 ニュース喫茶が小劇場となったのは、たしか高校生の時。日本の 名画の1本立てとして登場。大いに期待したものである。というのは 名画座があるうえに、地球座などでもけっこう古い作品を上映して いたし、中学のころからはリバイバル・ブームというものがあり、 たとえば「駅馬車」と「荒野の決闘」の2本立をオリオン座で上映、 カブキ座では「キング・ソロモン」あたりまでリバイバルの対象と していたので、外国映画については<本>に出ている<名作>を見 ることが、ある程度できたが、日本映画では不可能だったからだ。 年も押しつまった開場最初の作品は「氷壁」。毎夏休み、バイト で稼いだお金で必ず北アルプスに出かけていた山屋さんとしては、 ぜひ見ておきたい作品だったが、見なければよかったという出来。 年が明けて「戦国群盗伝」。戦前の日本映画というのを初めて見 たが、スケールが大きく、できも思いのほかよかった。そして、 そして(ミスプリではなく、わざと2回続けた)「七人の侍」。 2時間40分の海外版だったけど、これには興奮した。 ================================================================= ミラノのあるところは銀座劇場といって新東宝の封切り館だった。 宇津井健の「スーパージャイアンツ」というオソロシイ作品も記憶 しているが、何よりもお化け映画の劇場だった。小学3・4年の夏、 2年連続「亡霊怪猫屋敷」を見たが、これが恐かった。特に、3年 生の時は格別で、恐いシーンになると学帽を顔の前にし、覗き見を をするような格好で見たものだった。4年の時は、少しは柔らいだ ようで学帽を手にすることはなかったが、同時上映の「東海道四谷 怪談」よりはよっぽど恐かったことを覚えている。 建て替えられて4階は「アートシアター」ミラノ。これは完璧に 小学生には関係のない映画館でありまして、ずっと後のゴダール作 品までお預け。1階は日活の封切館だったが、いわゆる日活アクシ ョンは2・3番館で見たので、こちらも身近になるのはロマン・ポ ルノの時代になってから。 ================================================================== スーラの大タイル画の映画館になる前に、そこに何があったのか は記憶にない。現在のオリオン座になる以前は松竹の封切館だった が、そのころの松竹といえば、これも小学生や中学生に関係の無い 映画を上映するところで(2・3番館でもあまり見た覚えはない)、 多分、オリオン座になるまで入ったことがないのではないか? 有楽座は、開館以来ずっと洋画の封切り館。それもオリオンに次 ぐ2番手のそれで、数多くかよった。「ハタリ!」を目当てに行く のだが、おまけに「底抜け便利屋小僧」が付いたりしていて(オリ オンでは「ドノヴァン珊瑚礁」に「底抜け大学教授」というのがあ ったので、ここだけの話しではないのだが)儲けた、儲けたと思っ たものだ。 2番手なのになぜここで「ハタリ!」かというと、「ベンハー」と か「アラモ」などの超々大作は東京からほぼ1年遅れでオリオン座の 正月映画として上映していた関係で、正月映画のイチバンが有楽座に なる確率が多かったからである。 で、松竹に移る前のオリオン座。それは静岡朝日放送の社屋のとこ ろにあったのだが、それについては連載のNo.18をご覧あれ。 Tha, tha, That's all folks!!
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