日本アニメーション史(注 1)
§1 日本漫画映画の誕生
ヨーロッパではエミール・レイノーらが、映画が発明される以前の〈映画〉の探究の結果としてアニメーションを作っていたが、我が国でも同じような試みがなされていたのだ。具体的には影絵、のぞき絵、走馬燈、写し絵などだが、特に写し絵は、寄席の出し物として江戸市中の人々に広く親しまれていたし、絵の効果としても、レイノーらの実験に決してひけをとらなかった。
しかし、レイノーらのものがそうだったように、写し絵などが非映画であったことはまぎれもない事実で、我が国における真のアニメーションの誕生はJ・R・ブレイやラオル・バレーらの、いわゆる『凸坊新画帖』シリーズの登場を待たねばならなかった。
続々と公開される外国のアニメーションに触発されて、大正 6年、マンガ家の下川凹天が、最初黒板にチョークで描く方法によって、それが失敗したあとは、背景を印刷した白紙を使い、その背景が人物と重複するところを白絵具で塗りつぶすという方法を使って『芋川椋三玄関番の巻』(17)(注 2)を作る。これが我が国最初のアニメーションだといわれている。が、同じ年のうちに、やはりマンガ家の幸内純一が『塙凹内名刀(新刀)之巻』を、美術雑誌の発行者から日活のタイトル書きに転身していた北山清太郎が『猿蟹合戦』を発表しており、しかも作品的には幸内作品が他 2作を引き離してダントツだったようだし、また、北山は前年から制作に入っていたというから、下川・幸内・北山の 3人をもって我が国のアニメーションのパイオニアとすべきであろう。
その後、下川は『茶目坊新画帖』、幸内は『塙凹内』の、それぞれのシリーズをつづけるものの、両者とも 3〜4 本を作っただけでアニメーションの製作を休止してしまう(ただし、幸内は政治PRアニメ『人気の焦点に立てる後藤新平』(24)で復帰する)。
一方、北山はタイトルを書きながらも精力的にアニメーションの仕事をつづけ、大正10年には日活から独立し、日本初のアニメーション専門スタジオである北山映画製作所を設立する。このスタジオでは、娯楽作品とともに『気圧と水揚ポンプ』(21)、『植物生理・生殖の巻』(22)といった教材用フィルムも作られている。つまり、アニメーション作りが“もうかる商売”に転じた現在に至る直前までの我が国のアニメーション製作者たちの典型・・娯楽作品と教育的作品の並行製作・・が、ここで形づくられているのである。
さらにこのスタジオには山本早苗(善次郎)、木村白山などといった、パイオニアたちに続くべき人々が入社している。そして、筆者が見ているのは、この人たちの作品から、ということになる。 ところが、これらの人々のこの時期の作品は、残念ながら同じ時期にアメリカで作られていたものと較べると、いかにも冴えない。たとえば、大正14年の木村白山の『塩原多助』(25) 円朝のおなじみの話を、その人情話的な側面をバッサリ切って、教訓説話的側面を全面的に押し出してアニメ化したもので、おせじにも面白いとはいえない。また、アニメートのほうも、かろうじて動いているといった程度。しいて魅力をあげるならば、ある種のなつかしさを感じさせる素朴な味の描画による背景、といったところだろうか。また、山本早苗の『日本一の桃太郎』(28)。これも昔話の忠実なアニメ化で、コーダンシャの絵本が動いた、という以上の格別な興味をひくものではない。 公平にみて、このあたりまでは、我が国でもアニメーション作りがおこなわれていた、という〈事実〉が、とりあえず重要であろう。
☆ ☆
大正12年、山本の幼なじみ村田安司が、シャルル・パテの作品を日本国内に配給する会社、横浜シネマに入社する。当初、タイトル書きの仕事に従事していたが、パテはブレイ作品の配給業者だったわけで、安田はこの仕事を通じてアニメーションに興味をおぼえる。そこで、山本を訪ねてアニメーション作りの方法を学んだりしながら、そのころの我が国のアニメーション製作の主流だった切り紙法に、彼独自の方法を編みだす(“彼独自”というのは、このころアニメーションの製作法は、各作家ごとの秘伝になっており、山本も基本は教えてくれても、肝心かなめのところは教えてくれなかったからだ)。
まず『ジラフの首はなぜ長い』(26)を試作し、つづいて『蛸の骨』(27)を発表、アニメーションの道をつき進むことになる。 この村田は、戦前における最も多作な作家で、昭和11年までの間に約50本の作品を発表している。そして、その間に鍛えられた切り紙アニメーションの技術は、実験系の人々の稚拙なものしか見ることができなくなった現在からは想像もできないくらい高度なものだった。
しかし、問題は内容である。たとえば、サルを助けた飛脚が、サルからもらった名刀で危機を脱するという昭和 5年の『猿正宗』(30)。イソップ物語ふうの教訓臭ぷんぷんで、お世辞にも面白いとはいいがたい作品であった。多分に、現在の我々からは想像がつきかねる、戦前の世間一般のモラルのあり方に規制されていたとしてもである。
村田が切り紙派の代表とすれば、セル派の代表が政岡憲三だった。彼は大正 6年美術学校を卒業し、その後黒田清輝のもとで学ぶなど、絵画の道を志していたが、大正14年、マキノ映画に入り、映画の道を歩むことになる。昭和 5年、その技術主任として働いていた日活の教育映画部の廃止を機に独立し、おなじ日活との提携で、『難船ス物語・猿ヶ島』(30)を製作する。この作品は切り紙で、内容も難波船で唯一生きのびた赤ん坊がサルたちに育てられるが……というもので、格別の目新しさはなかったが、シャレたタイトルに象徴されるようなスピーディなストーリー展開は出色だった。
つづいて、続編『難船ス物語第二編・海賊船(海の冒険)』(31)などを作り、昭和 7年には日本初の本格的なオール・トーキー・アニメーション『力と女の世の中』(32)を、全面的にセルを使用して作っている。プリントが現存していないので評価はさしひかえたいと思うが、タイトルからも類推しうる、当時としてはめずらしいナンセンス・ストーリー・アニメーションだったことは注目にあたいしよう。ナンセンス物ということ自体は実写映画がらみでいえば単なるモードにすぎないとしても、多大な製作費を必要とするオール・トーキー、オール・セルを手がけるにあたって、本来のガキ共らではなく、より大きな拡がりを期待しうる大人たちを観客として想定したことに“僕は、漫画映画を製作して損をした事は無い”(注 3)という強弁とも受けとれる彼の述懐を裏打ちする、真に才能のあるマンガ家に共通の、大衆の嗜好をキャッチする確かな目を感じることができるからである。貴重品に近かったセルの使用も、片や彼の芸術至上主義的な生き方を規定するものであったことも事実だが、実は確実な成算のもとでなされたことだといって差しつかえあるまい。
ところで『力と女の世の中』の製作に入る直前、政岡のところにひとりの青年がとびこんできた。瀬尾光世である。 彼は日本初の長編漫画映画『桃太郎の海鷲』(43)と、それに続く長編で、敗戦直前に封切られたまま幻の作品となってしまったが傑作との世評が高い『桃太郎・海の神兵』(45)を作ることになるのだが、この 2作にいたるまでの彼の歩みは、敗戦まで続く昭和ひとケタ代後半と10年代のアニメーション(というよりも、芸術全体)の歩まざるを得なかった軌跡を、きわめて象徴的に語っている。
しばらく政岡のもとで働いた瀬尾は、『お猿三吉・防空戦の巻』(34)をもって独立するが、まずは、このころから我が国にも上陸しはじめたアメリカのカラー作品の前に、劇場用ルートを離れたところに活路を求めざるをえなくなる、という戦後にも繰り返される歴史を刻むことになる。 たとえば、森永のCM『お山の大将』(35)、消化剤わかもとのCM『日の丸旗之助』(38)といった作品を作ることになるのだが、後者の旗の助はポパイ、わかもとはホウレン草という露骨な設定は、それが露骨であるぶんだけヘンな教条主義の入り込む余地が少なく、逆に爽快な展開を保証してくれたといえる。いま見ても魅力的な一編ではある。
昭和15年、映画法が制定され新たな展開を生む。この中に文化映画の強制上映の項があったからだ。実際には、頭のおカタい文部省の役人(ゴメン!!筆者もそのひとりなのじゃ)の前に認定されたケースは少なかったようだが、漫画映画も少国民の教育の伍をになうものであるとして、文化映画の一種と目され、一躍脚光を浴びるようになる。劇場用への復帰である。しかし、認定を受けたか否かにかかわらず、瀬尾の『あひる陸戦隊』(35)を筆頭に、佐藤吟次郎の『マー坊の大陸宣撫隊』(42・演出は千葉洋二)、山本早苗の『スパイ撃滅』(42)、桑田良太郎の『闘球肉弾戦』(43)と並ぶと、いうところの少国民教育の目的がなんであったかがミエミエである。芸術だとはいっても低俗なものと思われていた漫画映画ゆえに、逆にこうした直接的なものにならざるを得なかったのだろうが、それを考慮しても、あまり誉められた話ではない。
とはいうものの、ある一定の段階までなら、金とヒマをかければ目に見えて作品の出来上りが良くなるというアニメーションの宿命は、この誉めるわけにはいかないところでも同じで、誕生以来初めて経済的な基盤を得た我が国のアニメーションは、この時期を通じて、少なくとも技術面に関していえば飛躍的な進歩を示した。その結実が瀬尾の 2本の長編作品だったといえる。
政岡憲三にもどろう。そうした環境下にあって、ひとり独自の道を歩んだ彼の軌跡が大きな救いになるからである。しかし、昭和14年に、アフレコとの併用だが、プレスコを使って『べんけい対ウシワカ』(39)で爽快なアニメーションを展開したのを手始めに『かんがるうの誕生日』(40)、横山美智子原作の童話による『かりた帽子』(41)と、世の中の好戦気分とはてんで関係の無いフィルムを作るのもつかの間、『フクちゃんの奇襲』(42)などといったフィルムも作っているので、反骨精神がそうさせたのではなく、芸術至上主義的な態度が彼に独自の道を歩ませたといえよう。より満足すべき条件下ならば、なんでも作ってしまおうという感じである。便乗しなかっただけで、拒否をしたわけではない。
意志強固な人びと、あるいはセイウンの志に燃える人びとからすれば糾弾の対象以外のなにものでもないだろうが、この、言うならばノンポリの政岡が作った作品が『くもとちゅうりっぷ』(42年12月完成)だったのだ。これは記憶に留めておく必要があろう。もちろん、「遅れてきた青年」より、さらに遅れたきた戦無時代の筆者の、第三者的な者の目の判断でしかないが、この時代、アニメーションの分野に限らず、志高きことを述べていた者も、結局は大翼賛作品の生産に励まざるを得なかったのだから………。
太陽がさんさんとふりそそぐ野辺で「てんてんテントウ虫、おてんとさんの子」と歌いながらテントウ虫の女の子が、のんびりと時をすごしている。そこにカンカン帽にマフラーの色男風のクモが登場し、そのカッコウ良さと美声とを武器にテントウ虫に誘いをかける。が、見事空振り。それでも、さらにひつこく迫るクモ。そこでテントウ虫はチューリップの花の中へ逃げ込むが、クモは糸でチューリップをぐるぐる巻きにしてしまい、あとは時を待つだけ………。雲がわきあがり、静かだった野辺も夜半には暴風雨にさらされることになる。必死になって体を支えようとするクモだったが、遂には池の中へ振り落されてしまう。朝、見事に嵐を耐え抜いたチューリップ。そして、その花の中からテントウ虫が出てきて〈平和〉の時をおう歌するのだった。
嵐のときの鮮烈な描写と、その前後のおだやかな至福のイメージに満ちた描写とのきわだった対照、それを支えた確かな腕のアニメートの技術とプリ・レコーディングされた80人のオーケストラによる豪華なサウンド。昭和18年 4月、まさに日本国中が戦時色一色に塗り込められた時期に公開されているのだが、戦争のセの字をも感じさせない。政岡としては、横山美智子の原作を『シリー・シンフォニー』風に構築しただけだろうが、あえて〈平和〉と書き添えられて然るべき資格と、そして魅力を持った作品となっているのだ。
日本が破滅の時に刻一刻と近づきつつあった時、『くもとちゅうりっぷ』とは反対の場所では、幻の傑作『桃太郎・海の神兵』(59年になって発見され、公開された。)が作られていたわけだし、同じ路線でいっても、前田一、浅野恵の『上の空博士』(44)となれば、そのスピーディな展開やシンプルなデザインは、現在のリミテッド・アニメの先取りをするものであったという。我が国のアニメ界は確かに一時期を画したのである。
§2 日本漫画映画の復興 そして、敗戦。
一定の需要を保証してくれていた映画法はどこかに消えてしまったし、なによりも、物資の欠乏と級数的なインフレの猛威はアニメーション製作の場を奪ってしまったかにみえた。たしかに、敗戦直後の20・21年あたりは製作本数も激減してしまうが、敗戦の時まで行われていた数々の規制の撤廃・・すなわち、自由の到来は、物資の欠乏に打ち勝った。
まず、政岡憲三。21年 5月、ストコフスキーが指揮するウェーバー=ベルリオーズ編の「舞踏への勧誘」をバックに、京の舞子、桜の花吹雪、飛びまわるチョウと、春の情景をリリカルに描いた一編『桜(春の幻想)』を完成させている。騒然たる世の中とはまるきり反対のノンビリ・ムードだし、もちろん自由の到来などを声高に叫んでもいない。ネガティブな形ではあるが、『くもとちゅうりっぷ』とならんで、政岡の芸術至上主義的な心意気を示していよう。 続く22年 9月には『すて猫トラちゃん』(47)を発表。母ネコが、助けてやった捨ネコのトラちゃんばかり可愛いがるので、本当の子どもがヤキモチをやいて家出してしまう。その家出した子ネコをトラちゃんが探しに出かける、という話はありきたりだが、オペレッタ形式の使用や 180度の廻りこみの試みなど、技術的な面での意欲は称賛に価すべきものがあった。(注 4)
瀬尾光世は『王様のしっぽ』(49)。23年の 1月に着手し、一時中段はしたものの24年10月に完成したこの作品は、33分(当初は46分)だったにもかかわらず、作画枚数の10万枚を数えた超大作だった。しかし、アンデルセンの「裸の王様」を素材に、しっぽのないキツネの王様をコケにした内容が、左がかっているとして一般公開を見送られてしまう。 そのほか、22年には東宝教育映画部(注 5)が、早坂文雄の音楽を得て、一本のムクの木のまわりの四季の移り変りを描いた、これぞ正に『シリー・シンフォニー』というべき『ムクの木の話』(47・丸山章治演出)を作っているし、23年には芦田巌が 8巻すべてをフル・アニメーションで描き切った『バグダッド姫』(48)を発表しているのだ。
翌24年には、薮下泰次を配した日本動画映画(のちの日動)が『ポッポやさん・のんき機関士』、『動物大野球戦』(49)を発表して気をはくが、『王様のしっぽ』のオクラ入りと歩調を合わせたかのごとく、戦後の高揚もここまでであった。 続々と公開されるアメリカ製のカラー作品にモノクロの日本作品が対抗するすべはなかったし、税制の改悪が、もともと弱小資本でしかなかった我が国のアニメ業者に大打撃を与えた。以後は、アニメーション本来の、常識の逆手にとった飛躍に満ちた表現、という観点からすると、敗戦前のいろいろな規制(そこでは必ずしも国策一辺倒でなく、国策に反しさえしなければ、娯楽一辺倒の作品を作る余地はあったのだ)以上にきゅうくつな規制が存在する教育用や宣伝用のアニメーション作りに活路を求めなければならなかったのである。
☆ ☆ ☆
戦後の混乱もほぼ収束をむかえた昭和30年、そこを境にしばし冬の時代にあったアニメーション界にも、新しい息吹きが芽生え始める。
まず人形アニメーション。それまで我が国で作られたアニメーションといえば、動画イコール二次元の作品がほとんどで、三次元のアニメーションは皆無に等しかったが(注 6)、飯沢匡を中心に人形絵本を作っていたグループが、その絵本の動かない人形になんとか〈生命〉を吹き込もうと試み、31年 1月『瓜子姫とあまのじゃく』(56・田中喜次・持永只仁演出)という我が国初の本格的人形アニメーションを完成させている。これは必ずしも成功作とはいえなかったようだが、同じ年の11月に完成した『ちびくろさんぼのとらたいじ』は傑作だった。バンクーバーの映画際で最優秀賞を受賞している。我が国の人形アニメーションは生まれた当初から国際的にみて第一級の実力を誇っていたことになる。 この躍進の原動力となっていたのが、演出の持永と、人形製作を担当した川本喜八郎だった。
持永は前章でふれたように、中国のアニメーションの礎を築いた人物だが、27年に帰国し、今度は我が国の人形アニメーションの基礎を作ったわけだ。36年にはMOMプロダクションを設立し、アメリカとの合作で、アメリカ向けの五分物の帯番組シリーズ『ピノキオの新冒険』New Adventure of Pinoccio (56)、劇場用の長編「ウィリー・マックビーンの冒険」Willy Mcbean and His Magic Machine(63)などを作っている。
川本は、33年のシバ・プロの設立に参加し、CF作りに携わったのち、38年から39年にかけてチェコのトルンカのもとに学ぶ。帰国後は、壬生狂言に求めた題材を、水平に置いた背景の上でレリーフ状の人形を使って描いた『花折り』(68)、横光利一の原作を、人形をアニメートしながらモノクロのスチールに撮り、それを再撮影するという面倒な方法で描いた『犬儒戯画』Farce Anthropecynique (71)、能の世界を、そのオリジナルが持つ以上の恐るべき完成度をもって最構築した『道成寺』(76)と、それをさらにつき進めた『火宅』(79)などの自主作品を発表、世界でも屈指の人形アニメーション作家の地位を確立している。
MOMプロで、人形アニメーターとして活躍していたひとりに岡本忠成がいる。39年に独立し、エコー社を設立したのち、星新一のショート・ショートを原作とした『ふしぎなくすり』(65)を第一作に、以後『おじいちゃんが海賊だったころ』(68)、『さるかに』(72)、『ちからばし』(76)と、痛快なホラ話から泉八雲の怪談まで、それぞれ見事に再現されたバラエティに富んだ人形アニメーションを作っている。しかも彼の場合、レリーフを使った『キツツキ計画』(66)、ペーパークラフトによる『ホーム・マイホーム』(70)、動画の『チコタン』(71)。切り紙の『南無一病息災』(73)、マルチ・スクリーンを駆使した『水のたね』(75)、毛糸を使った『あれはだれ?』(76)と、人形アニメーション以外にも、いろいろな素材をアニメートしているのだ。はりこや郷土人形を使った『おこんじょうるり』(82)で芸術祭大賞を受賞したものの、解り易さを旨とする姿勢が、難解さを珍重する批評家すじに不当に軽くみられる傾向にあるようだが(筆者もそのうちのひとり!?)、そのアニメートの技術は一級品、そのなんでもかんでもアニメートをし、しかも確実に成果をあげてしまうバイタリティを発揮して、ぜひ長編作品を作ってほしいところである。我が国の長編作品に共通の欠点である腰くだけを回避するには、彼のバイタリティこそ必要だからである。
MOMプロは42年にビデオ東京として再編され、河野秋和と中村武雄を中心に活動を続ける。その代表作『てんまのとらやん』(71)は、船場の丁稚トラやんの、ウナギを追っかけて宇宙から海底への大冒険を描いて爽快な作品であった。 33年には学研映画部がアニメーションに進出。翌年の『いねむりぶうちゃん』(59)では神保まつえがデビューし、以後、彼女のプロデュースのもと、作品の中身をも含めて、最も安定したペースでのアニメーション作りが続けられている。我が国の人形アニメーションは、世界の第一級のレベルに達していると言えるだろう。
動画のほうでは、30年 1月に横山隆一の、おとぎプロの設立があった。有名な漫画家の、いわば道楽半分の設立ではあったが、それゆえに我が国のアニメーション界としては、久しぶりに金銭的な心配の少ないところでの製作の場が得られたわけである。同年の『おんぶおばけ』(55)を第一作に、『ふくすけ』(57)、長編の『ひょうたんすずめ』(59)と『おとぎの世界旅行』(62)などを作っているが、たとえば『ふくすけ』のセリフのまったくない軽やかな展開の中に漂う、なんともいえないノンビリ・ムードの中に、このプロダクションの特質が如実にしめされていよう。ここからは、山本暎一、泰泉寺博、鈴木伸一らの人材が輩出しているが、この鈴木が36年に演出した『プラス五万年』(61)は、人類の過去と未来とを快適なテンポと鈴木一流の明快なアニメートで描いており、おとぎプロ自体の性格とはやや異質だったが、然しこのプロダクションを代表する傑作となった(鈴木については自主制作の項も参照のこと)。
人形アニメーションと、おとぎプロの出現は、我が国のアニメーション界に新たな地平を切りひらき、その領域の拡大に大きく貢献したが、昭和30年を端境期とする我が国のアニメーション史に、より大きな、エポック・メーキングな足跡を刻んだものとしては、やはり東映動画の設立をあげなくてはなるまい。
純粋な商業作品として、その興行力だけを頼りとした継続的、かつ組織的なアニメーション作りを成功させたからである。 が、このスタジオとて、当初は教育映画作りの一環としてアニメーションの製作が組み入れられたことに端を発していたのだ。さらには、開局したばかりのテレビのコマーシャルにアニメーションが使われるだろうという期待も含まれていた。決して華々しい門出だったわけではないのである。
その軌跡の起点『うかれバイオリン』(55)は、東映教育映画部が日動映画に製作を委託する形で作られている。なんのことはない、敗戦直後に日本国中のアニメーター達が大同団結してできた大日本動画社から、政岡が抜け、瀬尾が抜け、そのあと細々と漫画映画を作り続けてきた日動の作品にほかならないのだ。しかし、細々とはいえ、地道に伝統を重ねてきた人々の作品は好評で、この日動の株を取得し、商号を変更してできたのが東映動画だった。そして、『うかれバイオリン』(55)のスタッフ、演出・薮下泰司、原画・森康二、大工原章、古沢日出夫は、そのまま東影動画創世紀の主要メンバーとなった。
それまでの弱小資本ではなく、大東映の傘下である。しかも、現在のショボクレた映画界とは大違いで、製作する作品はほとんどが大ヒットの黄金時代の映画界にあって、一番の成績を収めていた会社の元での発足である。高校の空き部屋を借りて作られていたスタジオも、冷暖房完備の 3階建ての独立したビルになったのである。東洋のディズニー・プロを目指す、というふれこみもあながちウソではなかった。典型的なマニュファクチュアであった我が国のアニメーション界に、近代的な大工場システムが導入されたのである。
新しいスタジオで製作にとりかかったのが短編『こねこのらくがき』(57)と長編『白蛇伝』(58)であった。 『こねこのらくがき』は、13分のモノクロ作品だったが、作画枚数約四万枚、たしかにディズニー風のていねいな作り方がなされていたといえる。子ネコが壁にらくがきをすると、それが動き出し、わきからそれを眺めていたネズミたちがはやしたてる。そこで、らくがきの乗り物などに乗ったネコとネズミたちの追っかけっこが始まる。東映動画ではなく東映教育映画部の名前で発表されたこの作品には、「落書きはやめましょう」というキャンペーンが含まれていたそうだが、一見ヘタクソな子ネコのらくがきが動き回る奔放なアニメートの中には、そんなキョーイク
テキ・ハイリョはみじんも感じられない。新しいスタジオの門出を飾るにふさわしい秀作だった。
これまで述べてきたように、『桃太郎・海の神兵』など、それ以前にも長編漫画映画は存在していたし、それらはそれなりに評価すべきものを持っていたといえる。しかし、『白蛇伝』こそが、色線トレスを使ったオール・カラー、そしてマルチ・プレーンやライブ・アクションの使用など、国際的にみても一級品として通用するに充分な規格を持った我が国初の長編漫画映画だった。
しかし、作画枚数20万余を数えたことに代表される外観の素晴しさに対し、少年に助けられた白蛇が美しい少女となって現われ、そのふたりがいろいろな障害をのりこえて結ばれる、という純愛ロマンスの筋立ての凡庸さはいかんともしがたいし、ましてこうした作品を実質 8ヶ月で作りあげてしまう我が国アニメ界が誇る突貫作業が演出の薮下に「もっと完全な作品にするために金も時間も欲しかったが、製作資金の制限と、ある一定の期間までに完成せよと会社の厳命はあるしで板ばさみの状態だった。完成品を見ても直したいところだらけで、カットや、場面転換、ニュアンスの表現など、もう少しゆっくりやれたらよかったと思う」(注 7)と言わせたとなると、そう喜んでばかりはいられない。事実、チョウチン批評を別にすれば、公開当初の評は芳しくなかったといえる。 とはいうものの、そして先ほど簡単に使ってしまったが、国際的規格なるもの自体が相当にいいかげんだとしても、やはりこうした作品を作りあげたことの歴史的な意義は大きいといわねばならない。
そして、もう 1度、歴史という言葉の助けを借りると、この作品は単なる歴史的意義を乗り越えて傑作の地位を獲得するのだ。まず、古臭さと日本的変形を感じさせた中国情緒の描写が、現在に至ってはほどよい憧景と感ずるようになったこと。つづいて、薮下のいう欠陥が、スタッフ達の情熱が行わせた勇み足であったことが明らかになったことである。すなわち、批評の目が時の流れと共に観客の場に近づくに従って、欠陥と思えたものが、ショーバイ第一を考えたあまりにもアニメーション離れした会社側の企画に対しての、もちろん限られたワクの中のものでしかないにしても、燃えに燃えたアニメーター達スタッフ側の<悲憤慷慨>(注 8)の反逆の表現であっただろうことが浮かびあがってきたのである。
アニメーションの側の論理からいけば、誉められることはあっても貶される理由などどこにも無い。 ただし、こうした筆者の思い入れを、非難を承知で書きうるのは、この作品のみ。続く『少年猿飛佐助』(59・薮下・大工原演出)、『安寿と厨子王丸』(61・薮下・芹川有吾演出)となると、その事大主義的な展開は否定の対象でしかない。しいてあげるならば、『西遊記』(60・薮下・手塚治虫・白川大作演出)のクライマックス、火焔山での悟空と牛魔王の対決のエネルギッシュな描写の素晴しさであろう。ともあれ、資本に準備された憂いの少ないアニメーション作りの環境も、その資本の論理が増殖させる新たな憂いに侵食され始めたのである。
§3 漫画映画からアニメへ
昭和38年 1月 1日、国産初の30分物の連続アニメ『鉄腕アトム』(63〜66)の放映が初まり、ただちに爆発的な人気を得ると、このスタジオでも同種の作品の製作を要請されるようになる。その結果は月岡貞夫の大車輪の活躍が伝説的に語りつがれることになる同年11月の『狼少年ケン』(63〜65)の放映開始となるのだが、と同時に劇場用作品にある種の変貌を与えることになる。
なにしろ毎週毎週30分(実際には22〜23分程度だが)の新作である。それまで、コマーシャルを別として、劇場用作品一本槍、それに全力投球してきた制作体制に、物理的にはもちろん精神的な変化が求められたのは当然といえば当然であった。しかも、『狼少年ケン』をそのまま劇場にかけてみると、想に反して大ヒットである。それで充分に商売になるとしたら、テレビ作品に追われて腰を落ちつけて製作ができないという事情があるものの、劇場用だからいって肩をいからせて全力投球するのがバカらしくもなろうというものである。
このように書いてくると、劇場用作品にとって良いことはひとつも無かったようにも見える。たしかに物理的な製作条件は悪化の一途をたどることになるのだが、作品自体の展開に側していえば、このことはプラスの方向に作用したといえる。劇場用作品がうとんじられるに従って、事大主義的な色彩は薄らいできたのだ。
その第一の展開といえる『わんぱく王子の大蛇退治』(64・芹川有吾演出)の公開は『アトム』放映の年の 3月なので、厳密にいえばこの作品に対するテレビ・アニメの影響についてはなんともいいがたいし、この作品から導入された作画監督(森康二)という役割の存在も考慮せねばならないのだが、テレビ・アニメの初まった年のこの作品を境に東映動画の劇場用作品が確実に変貌をとげた事実は、やはりテレビとの関係を抜きにしては語れないだろう。 ともかくも、言葉の遊びではないが、王子はいただけないとしても、ワンパクを主人公にしうる製作態度の変化は重要である。
この軽やかさという武器を手にしたあと、『わんわん忠臣蔵』(63・白川大作演出)、『少年ジャックと魔法使い』(67・薮下泰司演出)、『ひょっこりひょうたん島』(67・薮下泰司演出)と快打を放ち、ついには『長靴をはいた猫』(69・矢吹公郎演出)という決定打を送り出すからだ。
タイトル・ロールとはいえヒーローには程遠いダメネコのペロ。好奇心と功名心では人一倍で、行動力もバツグンだが、かんじんな時になると臆病さも人一倍。バッグスに匹敵しうるトリック・スターである。しかも、このネコと、これもあまり優秀とはいえないが、ディズニーの『白雪姫』のダメ王子とくらべるならば、そこは“高貴”でない分だけ人間味ゆたかな少年ピエールというヒーロー、そして、ネコ社会の錠を破ったペロに差し向けられた刺客だがペロ以上にダメなズッコケ・トリオと、それに対するペロに助けられたこれもダメ・ネズミの 4匹、という三重構造の仲たがいが、悪の権化といった存在ではあっても悪であることをいささか恥じてもいるようすの魔王ルシファをやっつけるという話である。これだけ御膳立てがそろってハッスルしない手はないが、その描画もスタッフ達の乗りにノッた作業を如実に感じさせる力のこもったもので、クライマックスの魔王の城をかけ上がるシークエンスの緊迫感などでは絶品であった。
この傑作はスティーブンソンの「宝島」をドタバタ・アドベンチュアー物に仕立てあげた快作『どうぶつ宝島』(71・池田宏演出)にひきつがれるが、これらの傑作を準備した要因が、一方でハシにも棒にもかからない劇場用作品を生み出す一因になったことも忘れてはならないだろう。
『わんぱく王子の大蛇退治』以前の作品は、一本一本がスタジオの成績を左右する大黒柱的存在であり、それゆえに事大主義的な発想に陥ったのだが、作り方そのものはていねいで、長編作品本来の華やかさを持っていたといえるが、以後の作品は、確かにスタジオの柱ではあっても、他の部門とのバランスのうえに立つスタジオの一部門での作品でしかなく、時として手抜きの目立つものも含まれるようになったからだ。
それどころか、ここにあげたような傑作は現実には少数派であった。さらには、この少数派でさえ、現場のアニメーターの側からすれば、不満の塊でしかなかったようだ。良心的なアニメーターであればあるほどにである。当然使われてしかるべき高度な技術が、他の簡便な方法で埋め合わされてしまうのである。こうした観点に立った時、『太陽の王子・ホルスの大冒険』(68・高畑勲演出)の出現は、アニメーターの良心の発露として、『長ネコ』などを生んだのと逆の意味で必然であった。
“ 8巻、 1時間22分の中に、東映動画の全エネルギーが凝縮されつくしていた。従来の東映動画作品に見られたぬるま湯的な過去のスタイルを打破しようという意欲が、画面の隅々に浸透していた”(注 9)と評されるほどの力作を生み出しているのである。 しかし、企業内にあっては、これは一種の奇跡ともいうべきもので、こうした試みも、ほぼこれ一作のみであった。個々の作品の細部においては、意欲あふれる取り組みがなされてはいても、全体から見れば手抜きのみが目立つ作品が、続々と作り出されるに至ったのである。
テレビ・アニメの出現は、日動からの・・ひいては戦前までにさかのぼる伝統を持つこのスタジオのありかたを一変させたが、それは我が国のアニメーション界のありかたを一変させたことをも意味するのだ。
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『鉄腕アトム』から初まったテレビ・アニメは順調に進展を続け、今や毎週毎週30分の新作を30本ほど作るまでになった。ここで作られてきたアニメの量は、これまで本書で語ってきた範囲、つまりここでの作品を除く全アニメーション史の中で作られてきたすべての量、それをも確実にしのぐものである。量が歴史の重みを意味するならば、本書をもう一度始めから書き直すだけの時間と労力が必要、ということになってしまう。
そこで、ここでは筆者のテレビ・アニメに対する見解を提示して、それが歩んできた20年に及ばんとする歴史のまとめとしたい。それはある新番組を紹介するチョウチン記事の中に書かれていた「一話は平均してなんと 4〜6000枚」という文の中のなんとという言葉に集約される。この記事を書いた人にとっては、なんとという言葉は前後の記述からみて、もの凄く多い枚数であることを表現する言葉でしかないのだが、筆者にとっては、もっと複雑な状況を表現する言葉なのである。
まずは記事を書いた人とは逆に、少ない枚数であることに対しての解答である。筆者の常識からすれば、20分を少し越える程度の作品を作るためには、最低 2万枚の絵が使用されなければならないのだ。クソリアリズムを基調としたアニメートではあるにもかかわらず、烈風の中の長髪が微動だにしないというTVアニメによくある場面は、なんとも気持ち悪い光景だからである。いかにも手抜きという感じだし、事実、手抜きそのものといえる作品が圧倒的多数である。
しかし、これだけならばケイベツの念でしかないが、たとえば『未来少年コナン』(78・宮崎駿演出)や『機動戦士ガンダム』(79・富野喜幸演出)の素晴しい出来の回をまのあたりにすると、 5千枚程度でそれを作り上げてしまうアニメ技術に驚嘆せざるをえない。なんとは忽ち尊敬の念に変化するのである。量が重みを形成したのである。それらテレビ・アニメの出来の良い回でも、10人に満たない作画のスタッフが、ひと月を越えない程度の作業で作り上げてしまう、という神技(注10)が可能にした連綿と続いたアニメ作りは、過去のディズニーや東映動画とはまったく別物の新しいアニメ言語を形作ったといえる。
そこでは、アニメーションでは通常考えにくいことだが、主人公たちの内的悩み、すなわち実写映画で行われる性格描写が試みられているのである。アニメーションで試みるそれが、生身の人間が演ずるそれに優位を保てるとは思えないが(もっとも草刈正雄のブッキラ棒の演技が否定され、仲代達也のフン詰り大ネツエンが肯首される我が国の風土では、必ずしもそうとはいえないが)、それがアニメーション本来の奔放な表現と相まって、確かに新しい表現形式を獲得しつつあるといえるのではないだろうか。
そうした路線を、より手間ひまをかけて追求したものが、今や陸続と発表されるに至った劇場用作品となるのだが、少なくとも『銀河鉄道 999』(79・りんたろう演出)や『ルパン三世・カリオストロの城』(79・宮崎駿演出)、『じゃリン子チエ』(81・高畑勲演出) 、『セロ弾きのゴーシュ』 (82・高畑勲演出) 、『浮浪雲』 (82・真崎守演出) 、『うる星やつら2ビューテイフル・ドリーマー』 (84・押井守演出) 『風の谷のナウシカ』 (84・宮崎駿演出)は、旧来の感覚では評価しえない<新しい傑作>であるといえる。
『セロ弾きのゴーシュ』は、テレビ・アニメの下請け小プロダクションの自主制作という作られた方で大いに話題になった作品である。宮沢賢治の世界の土臭さを描けているとは思えないし、ゴーシュもテレビ・アニメのキャラクターの域を抜け出せなかったが、深々とした原作を無理にドラマチックにしないで、ほぼ忠実にアニメにした点は好感がもてた。
同じく高畑勲が演出した『じゃリン子チエ』も、原作の面白さと、関西喜劇人よるセリフの魅力で見せた。同趣向の『浮浪雲』の場合も、色彩の派手な扱いや、浮世絵的な画面構成や、日本的イメージの装飾的な扱いに新鮮味はあったが、逆にうすっぺらな印象を与えてしまった。結局のところこれらの作品はアニメにする事でアニメ本来の面白さを創造するところまでたどりつけなかった。
その点からいえば、現実離れした荒唐無稽な『銀河鉄道999』以下の作品はアニメにしやすく、アニメの本領を発揮できるはずである。
〈アニメージュ〉に連載中の漫画を自らが短縮して一応の結末をつけてアニメにした『風の谷のナウシカ』は、冒頭の静から小気味よく速い動きに、そしてダイナミックなアクションへと、たちまち観客を宮崎マンガの世界に引きずりこむ。そうした一連の連鎖的な派手な動きと、周到に構築された垂直方向にまで拡がる虚構世界が彼の作品の魅力である。しかし劇場版『未来少年コナン』を無視した本人が、この『風の谷のナウシカ』ではバッサリと〈土鬼〉の存在をカットし、ナウシカ一人をスーパー・ガールにしてしまったのは、大いなる矛盾である。
これと根底から対極的な思想の上に成立しているのが『うる星やつら2』だ。ナウシカは古めかしくも感動的な冒険談で、自然と文明=人間世界の対立という重苦しいテーマをひっさげていた。あたるとラムのよくある恋愛ゴッコから派生した想念が夢となって時間と空間をメチャクチャにして……この違いは決定的だ。純粋にTVアニメで育った押井守の現代っ子的感覚が随所に光っている。
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これまであえて挙げてこなかった名前がある。大藤信郎である。
その処女作『馬貝田城の盗賊』(26)は一般劇場で公開されているし、のちには政岡と組んで製作をするなど興行界との関係も少なからずあったし、また彼の製作方法がほとんど独力によるものだったとしても、それは東映動画にいたるまでの我が国のアニメーション界では、格別に特殊な状況ではなかったといえる。それで、ここで語ろうと思う自主制作作品には入れがたい面もあるのだが、その切り絵という特異な製作法を一途に追いつづけた製作態度と、そこから生み出された幾つかの作品には、我が国の自主制作アニメーションのパイオニアとしての地位を与えて然るべきものがあろうからだ。
当初モノクロ(27)で作り、のちにカラー作品としてリメイクされた『くじら』(52)や、『幽霊船』(56)などは、カラー・セロファンの抜けるような感じだが、それでいてギラギラした色彩の世界を展開しており、彼独自の境地とでもいうべきものを獲得していた。
大藤のセロファン映画も一種の影絵映画だが、この影絵にこだわり続けた人物に荒井和五郎がいる。彼の場合も、その代表作ともいうべき『お蝶夫人の幻想』(40)が、朝日映画なるレッキとした製作会社のプロデュースのもと、三浦環の作詞、作曲、歌唱を得て作られたというから、自主制作の作家とはいいがたい部分の方が多いのだが、その影絵という題材と、歯科医としてのかたわらアニメーション作りを続けたという事情から、自主制作の作家のひとりだと考えて差しいつかえないだろう。大藤と共に大変苦しい自主制作への繰り入れではある。
ということは、逆の見方をすれば、つい最近まで我が国には、自主制作を行う状況などなかったと言えよう。荒井のような医者という経済的に極めて恵まれた人たちだけが自主作品を作りうる経済状況だったのである。 そうした観点からするならば、おとぎプロの作品や、虫プロの『ある街角の物語』(62)や『展覧会の絵』(66・共に手塚治虫総監督) などは、有名なペーパー・マンガ家が、その趣味としてのアニメーションへの興味に自らの財力を投入したという意味で、自主製作作品として考えることができようというものである。
我が国における真の意味での自主制作、すなわち個人作家として自らの芸術表現をアニメーションに託して行ったものとしては、35年春に久里洋二、柳原良平、真鍋博による“アニメーショ三人の会”の結成と、その活動をもって嚆矢とすべきであろう。
ところが、最初の回に出品された作品は、正直なところアニメーションとは言いがたい代物だった。その功績は、漫画映画ではないアニメーションがありうるという(その当時にしたところで当り前の事実でしかなかったものだが)そのことを一般に広くアピールしたことにつきよう。マスコミ受けも良く、39年には“アニメーション・フェスティバル”と銘うって、三人の会からだけではなく、広く内外からの参加作品をも集めるようになり、最終的には46年の日本アニメーション協会の設立と、それに伴う“アニメーション・フェスティバル東京71”というビッグ・イベントの開催にいたるのである。そして、その間に登場した多くの作家たちは現在の我が国を代表するアニメーション作家となり、そこで発表された作品のいくつかは我が国の自主制作系のアニメーションを代表する古典となりつつあるのである。
三人の会同人の中では、久里洋二が本格的なアニメ作家の道を歩む。数々の国際映画賞に入賞し、その評判が逆輸入され一般のマスコミでも大家扱いされる、という閥を持たない(その当時は、だいたいアニメーション自体がそうだったのだ!!)実力のある芸術家が認められるまでの、文化官僚国家の我が国ではオナジミサンのコースをたどる。彼が社会に認められることは、即ちグラフィック系アニメーションが社会に認められることを意味した。それほどに彼の功績は大きかったといえる。
数多く作品をものしているが、武満徹のボーカリズムをバックにオリに入れられた男の恐妻心理を描いた『人間動物園』(61)、そのバリエーションで男と女のおっかけっこを描いた『LOVE』(63)、各話 1分程度の殺し方のアンソロジー『殺人狂時代(AU FOU!) 』(66)などが代表的な作品。最近は、一度功なり名とげた大家は手厚く保護されるという文化官僚国家の、やはりオナジミサンの状況の中で「11PM」の『ミニ・ミニ・アニメーション』でお茶を濁しているが、是非共大作をものしてほしいものである。
久里の一番弟子ともいえるのが古川タクで、久里実験漫画工房時代の『赤とんぼ』(66)でデビューしている。残像効果を利用したヨーロッパ中世の玩具にヒントを得た『驚き盤』(74)が代表作。最近作には『スピード』(80)がある。
「かれは一種の天才、それもアニメーションのために生まれた天才だと思わざるを得ない。それは、たとえばかれの技術ひとつをピックアップしてもわかる。最小の動画枚数で、動画の人物に最大の演技をさせる名人なのだ。」(注11)と手塚治虫に言わしめたのが月岡貞夫である。「西遊記」で手塚治虫のアシスタントとして東映動画へ出入し、たちまち頭角を現し「わんぱく王子の大蛇退治」で達者なアニメを見せ『狼少年ケン』で東映動画のテレビ・アニメの基礎を作った後、フリーとなりCF作りのかたわら『ある男の場合』 3部作(66〜68)を皮切りに自主制作を続ける。45年の超短編『新・天地創造』(70)はクラコウの短編映画祭でグランプリを受賞。今でこそ手の込んだ自主制作作品が当り前となったが、当時はデザインのみならず動きもシンプルなことが自主制作の主流だと思われていた時代で、その中にあって彼の作品は一大フル・アニメーションを駆使していた。その後は切り絵を用いた『前進』(72)、『共栄』(73)、『温飽』(73)、『玉座』(74)と続く『サイエンス・ノン・フィクション』シリーズで文明批判をテーマにやや暗い作品を手がけたが、新作『夜明け』 (85) は、同名の絵本を忠実にアニメートした労作で、喜多郎の音楽と共に、その静謐な味わいで忘れがたい印象を与えた。
おとぎプロを辞し、藤子不二雄、石森章太郎、つのだじろう、赤塚不二夫といったトキワ荘時代の仲間と共にスタジオ・ゼロ(注12)を興した鈴木伸一は、社長業のかたわら自主作品にも手を染める。46年の『点』(71)、55年の『The Bubble(バブル)』(80)は、それぞれのタイトルにかかげられたモノを求心点に置いてイメージを追求していった作品で、いかにもアニメらしさを感じさせる。また、『ひょうたん』(76)もそれに呑み込まれるべき人々のコードーを描いて秀逸。
世界中の主なCMコンクールで受賞していないものはない位の活躍をしているCM界の巨匠、島村達雄は、我が国も自主制作アニメーションを代表する古典『幻影都市』(67)を作っている。マス・メディアの発達が出現させた虚像が、人々の新しい友だちとなり、そして自分自身の......。テーマ自体は目新しくはないが、作者もそのひとりであるテレビ・マンこそがこうしたテーマを生み出す元凶であり、それを肌身に感じていただろう島村は、ダイナミックな描画を駆使しつつも、鬼気せまる迫力をもってテーマの追求をしていた。
そのほか、『Made in Japan 』(72)『JAPONESE (Made in Japan Part2.) 』(77)と矛盾に満ちた現代日本の社会を痛打しつづける木下蓮三、『とびら』(71)『グランド・ツアー』(72)『サイクルマン』(81)といった作品で、やはり喧騒に満ちた現代社会を描いている福島治などが第一線級といえるが、食うためのアニメ作りに追われ、腰を落ちつけて自主制作をしている状況ではないようだ。
もっとも、こうした状態は、これまで触れてきた我が国のほとんどすべてのアニメーション作家についていえることなのだが。 そうした意味で、元東映動画のアニメーターだったとはいえ漫画家の林静一が『鬼恋歌』(71)『かげ』(69)、イラストレーターの和田誠が『マーダー』(64)といった傑作をポツンと送り出してていることは、経済大国の表看板に相反するアニメーション作家への我が国の貧しい対応を象徴しているといえよう。
そうした我が国の貧しい状況は、“アニメーション・フェステバル東京71”を最後に、自主作品が発表の場を失ってしまって以降、唯一、相原信洋しか作家の名に価する人材が現れていないことに象徴されていよう。しかも、三人の会からフェスティバルに至る歩みは、反体制派の女性舞踊家が諸悪の根源として傷害事件を起す元となった“家元制度”が生み出した草月アートセンターの、その財力が基礎となっていた。自主制作イコール反体制のごとく語られてきたイメージとは大違いである。ともあれ、そうした背景さえない相原は、テレビ・アニメの下請けの仕事をしつつ、最初は 8ミリ、つづいて16ミリと、コツコツと実績を重ねねばならなかったし、それは並大抵の努力ではなかったはずだ。もっとも、それゆえに、『山かがし』(62)『逢仙花』(62)『妄動』(74)『STONE NO.1』(75)、『STONE NO.2』(75)、『雲の糸』(76)『カルマ(水輪)2』(81)などと続く作品群は、アニメーションを 100パーセント自らの内的観照の映像化に奉仕させることができた、という我が国のアニメーションの歴史の中での稀有の例を成しえたといえる。
《注解》1.本章は、渡辺・山口共著“日本アニメーション映画史”(有文社、77年)の発刊によって、幻の企画となってしまった、FILM1/24編「見よ!日本まんぐゎ・えいぐゎの伝統を!!」のパート・ゼロ(同誌第 8号、76年)にかかげられたレジメに、その基本型を負っている。渡辺・山口著でも解るように、我が国のアニメーションの歴史は、本章のスペースでは書ききれない重みを持つ。そこで、極めて要領良く我が国のアニメーションの流れをまとめた、このレジメを使おうというわけである(それに本書は実質的にはFILM1/24誌の発行でもあるわけだし……)。また、本章を書くにあたっては、当然のことながら渡辺・山口著を大いに利用させていただいた。
2.特に本作品のように、大正 6年の出来事と明示した直後では、こうした西暦の表示は二重手間でしかないが、外国の状況との対応を鮮明にさせるために、あえて表示した。
3. なみきたかし:採録“政岡先生にインタビュー”FILM1/24(23・24号合併号、78年10月)
4. 政岡憲三“もう一つの観点”FILM1/24(25・26号合併号、78年12月)によれば、「(この作品を作るに当って、東宝のプロデューサーに)価格は、初め僕は廿万くらいはかかるといったが、どうしても一巻十七万以上は無理だといふ。それでは断らうといったが出来たばかりのプロダクジョンがこわれてしまふというので、一晩考えさせてくれといって、結果あのとほりオペレッタ形式になったのです。歌にすると延びるので、それでテンポを犠牲にして二巻になり、営業部にいって二十五万円で手を打ったのです」ということになる。
5.この会社については、小松沢甫“幻の東宝図解映画社”FILM1/24(11号、76年10月)“続幻の………." FILM1/24(19号、77年10月)という好レポートがある。この当時の我が国のアニメーター達の苦難の道を見事に語っている。
6.昭和10年(35)のJ.O.スタジオの劇映画『かぐや姫』のラスト・シーンで使われた牛車を引く手の描写が、我が国初の人形アニメーションといわれている。政岡憲三が担当したという。
7.渡辺・山口著、66ページより引用。
8.井上ひさしの“巷談辞典”(文芸春秋刊、81)で、井上ひさしが説明した意味においてである。
9.渡辺・山口著、 122ページより引用。
10.我が国では当り前のこの制作体制は、欧米では<神技>以外の何物でもないのだ。『イエローサブマリン』制作上の大問題のひとつは、映画作りのスピードにあったという。実制作期間が極めて短かった、というのだ。どの位かといえば、丸一年である(ジョージ・マーチン『耳こそすべて』クイック・フォックス社,80年)。また『我々は英・仏・伊・スペイン・ユーゴの国際協力体制を作って、長編「三銃士」The Glorious Musketeers(74、ハラス演出)を六ケ月で作ってしまった。これは長編制作期間の短い世界新である。一か国内だけの作業では絶対不可能なことである』というのは、「ハラス−バチュラー・ニュース」75年春/夏号に誇らしげに書かれていた文章。
11.“月岡貞夫アニメーション・パレード”(75年 5月)のパンフレットより。
12.このスタジオの処女作ともいえる作品に『鉄腕アトム』の第34話『ミドロが沼』(63)があるが、この作品、なんと藤子・石森・つのだの面々がアニメーターとして筆をふるっている。それゆえ、藤子調のアトム、石森調のアトム、つのだ調のアトム、と色々な顔をしたアトムが出現するとのこと。現在はプリントが行方不明で幻の作品になってしまっているが、「見たい!!」と思うのは筆者ばかりではないだろう。